2016年5月11日水曜日

のぞきからくりが出てくる小説 江戸川乱歩「押絵と旅する男」



のぞきからくりが出てくる小説 江戸川乱歩「押絵と旅する男」
「新青年」昭和4年(1929)6月号初出、探偵物でも推理作でもない文学作品として、乱歩の一名作たるに恥じない代表作である。

江戸川乱歩全集 第5巻 
押絵と旅する男」光文社文庫、光文社
2005(平成17)年1月20日初版1刷発行

1994年に映画化された。

浅草観音堂の裏手でのぞきからくり「八百屋お七」を語っている場面が小説に出てくる。  「膝でつっつらついて、眼で知らせ」
また、十二階「凌雲閣」内部や展望台の描写がある。
<あらすじ>
魚津へ蜃気楼を観に行った帰りの汽車の中、二等車内には「私」ともう一人の同乗者しかいなかった。「私」は同乗者の男の持つ風呂敷に興味を持ち、観察する。
男は「私」に近付き、風呂敷の中身を見せる。それは洋装の老人と振袖を着た美少女の押絵細工だった。男は、押絵細工である彼らの「身の上話」を語り始める。


<小説の抜粋>
「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは、一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこれんな代物でございましたよ。表面はイタリーの技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えてごらんなさい。その頃の浅草公園といえば、名物がまず蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水のコマ廻しに、のぞきからくりなどで、せいぜい変ったところが、お富士さまの作りものに、メーズといって、八陣隠れ杉の見世物ぐらいでございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあとんでもない高い煉瓦造りの塔ができちまったんですから、驚くじゃござんせんか。高さが四十六間と申しますから、一丁に少し足りないぐらいの、べらぼうな高さで、八角型の頂上が唐人の帽子みたいにとんがっていて、ちょっと高台へ登りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。

(中略)
兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、又テクテクと跡をつける。そうして、行きついた所が、なんと浅草の観音様じゃございませんか。兄は仲店から、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人波をかき分ける様にしてさっき申上げた十二階の前まで来ますと、石の門をはいって、お金を払って「凌雲閣」という額の上った入口から、塔の中へ姿を消したじゃあございませんか。まさか兄がこんな所へ、毎日毎日通かよっていようとは、夢にも存じませんので、私はあきれてしまいましたよ。子供心にね、私はその時まだ二十はたちにもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化物に魅入みいられたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。

 私は十二階へは、父親につれられて、一度昇った切りで、その後行ったことがありませんので、何だか気味が悪い様に思いましたが、兄が昇って行くものですから、仕方がないので、私も、一階位おくれて、あの薄暗い石の段々を昇って行きました。窓も大きくございませんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴蔵の様に冷々と致しましてね。それに日清戦争の当時ですから、その頃は珍らしかった、戦争の油絵が、一方の壁にずっと懸け並べてあります。まるで狼みたいな、おっそろしい顔をして、吠えながら、突貫している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられ、ふき出す血のりを両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている支那兵や、ちょんぎられた辮髪べんぱつの頭が、風船玉の様に空高く飛上っている所や、何とも云えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線で、テラテラと光っているのでございますよ。その間を、陰気な石の段々が、蝸牛(かたつむり)の殻からみたいに、上へ上へと際限もなく続いて居ります。本当に変てこれんな気持ちでしたよ。

 頂上は八角形の欄干(らんかん)丈けで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、俄(にわか)にパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。雲が手の届きそうな低い所にあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいに、ゴチャゴチャしていて、品川しながわの御台場(おだいば)が、盆石(ぼんせき)の様に見えて居ります。目まいがしそうなのを我慢して、下を覗きますと、観音様(かんのんさま)の御堂だってずっと低い所にありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃの様で、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。

 頂上には、十人余りの見物が一かたまりになっておっかな相な顔をして、ボソボソ小声で囁きながら、品川の海の方を眺めて居りましたが、兄はと見ると、それとは離れた場所に、一人ぼっちで、遠眼鏡を目に当てて、しきりと浅草の境内けいだいを眺め廻して居りました。
(中略)

兄が見当をつけた場所というのは、観音堂の裏手の、大きな松の木が目印で、そこに広い座敷があったと申すのですが、さて、二人でそこへ行って、探してみましても、松の木はちゃんとありますけれど、その近所には、家らしい家もなく、まるで狐につままれたあんばいなのですよ。兄の気の迷いだと思いましたが、しおれ返っている様子が、あんまり気の毒なものですから、気休めに、その辺の掛茶屋などを尋ね廻ってみましたけれども、そんな娘さんの影も形もありません。

 探しているあいだに、兄と別かれ別かれになってしまいましたが、掛茶屋を一巡して、しばらくたって元の松の木の下へ戻って参りますとね、そこにはいろいろな露店が並んで、一軒の覗きからくり屋が、ピシャンピシャンと鞭の音を立てて、商売をしておりましたが、見ますと、その覗きの目がねを、兄が中腰になって、一所懸命のぞいていたじゃございませんか。兄さん何をしていらっしゃる、といって肩をたたきますと、ビックリして振り向きましたが、その時の兄の顔を、私はいまだに忘れることができませんよ。なんと申せばよろしいか、夢を見ているようなとでも申しますか、顔の筋がたるんでしまって、遠いところを見ている眼つきになって、私に話す声さえも、変にうつろに聞こえたのでございます。そして、『お前、私たちが探していた娘さんはこの中にいるよ』と申すのです。

 そういわれたものですから、私も急いでおあしを払って、覗きの目がねをのぞいてみますと、それは八百屋お七の覗きからくりでした。ちょうど吉祥寺の書院で、お七が吉三にしなだれかかっている絵が出ておりました。忘れもしません、からくり屋の夫婦者はしわがれ声を合わせて、鞭で拍子を取りながら『膝でつっつらついて、眼で知らせ』と申す文句を歌っているところでした。ああ、あの『膝でつっつらついて、眼で知らせ』という変な節廻しが、耳についているようでございます。

 のぞき絵の人物は押絵になっておりましたが、その道の名人の作であったのでしょうね。お七の顔の生き生きとしてきれいであったこと。私の眼にさえほんとうに生きているように見えたのですから、兄があんなことを申したのもまったく無理はありません。

兄が申しますには『たとえこの娘さんがこしらえものの押絵だとわかっていても、私はどうもあきらめられない。悲しいことだがあきらめられない。たった一度でいい、私もあの吉三のように、押絵の中の男になって、この娘さんと話がしてみたい』と、ぼんやりとそこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。

考えて見ますとその覗きからくりの絵が、光線を取る為に上の方が開あけてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。

 その時分には、もう日が暮くれかけて、人足もまばらになり、覗きの前にも、二三人のおかっぱの子供が、未練らしく立去り兼ねて、うろうろしているばかりでした。昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮には、今にも一雨来そうに、雲が下って来て、一層圧おさえつけられる様な、気でも狂うのじゃないかと思う様な、いやな天候になって居りました。そして、耳の底にドロドロと太鼓たいこの鳴っている様な音が聞えているのですよ。その中で、兄は、じっと遠くの方を見据えて、いつまでもいつまでも、立ちつくして居りました。その間が、たっぷり一時間はあった様に思われます。

 もうすっかり暮切って、遠くの玉乗りの花瓦斯が、チロチロと美しく輝き出した時分に、兄はハッと目が醒めた様に、突然私の腕を掴つかんで『アア、いいことを思いついた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡をさかさにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか』と、変なことを云い出しました。『何故です』って尋ねても、『まあいいから、そうしてお呉くれな』と申して聞かないのでございます。

(中略)


ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。私はハタとある事に気がついたのです。と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じ位の大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。

そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、案の定、兄は押絵になって、カンテラの光りの中で、吉三の代りに、嬉し相な顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。

 でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望ほんもうを達した、兄の仕合せが、涙の出る程嬉しかったものですよ。

2016年5月10日火曜日

のぞきからくり 「操の鏡 今紫」 あらすじ

のぞきからくり 「操の鏡 今紫」 あらすじ

「金瓶楼」という遊郭の内部だと言われている写真、「金瓶楼」は格式も高い大型店舗だった)

のぞきからくり の外題は今でいえばお昼のワイドショーか三流週刊誌のネタ我多い。 鉄板ネタは今も昔もやはり不義・密通、不倫ものであろう。

のぞきからくり「不貞の末路」というのは有名で動画も存在する。
しかし、そのまったく逆の物語も作られて実演されていたようだ。

「ないない尽くし」という歌で「芸者の誠と四角い卵は見たことない」というのがある。芸者や女郎との約束は当てにならない、「必ず破られる」と世間では思われていた。

この「操の鏡 今紫」は吉原の女郎と二等卒の兵隊、中田との愛の物語である。最後は夫婦になるというこういういい話ものぞきからくりになっていたようである。

花の東京にほど近い 武蔵国は葛飾郡
XXXXXという人が 米相場を致される

財産売り払い 我家までも明け渡す
それでも足らぬ借金に とりわけ美人の姉娘
東京吉原金瓶楼へ  今紫と名を変える

美人で人柄もいいのでお客は多く。お金持ちのだんなが持っていた金時計を今紫にやり、大切に所持していた。ある日、軍隊仲間が中田をだまして吉原へやってきた。

男がよくてやさしくて 正直者の中田に 
さすがの紫ほれこんで 互いに心を打ちあけて 
この世はおろか二世までも 夫婦約束いたされて

今紫は金時計 中田は自分の着る白のシャツ
互いにかたみと取りかわす

面白くないのが隊長の五十嵐であった。実は五十嵐隊長は今紫にかねてより思いこがれていたのであった。五十嵐は中田に金時計を盗んだという無実の罪をきせ憲兵隊へ連れて行った。軍法会議で中田は窃盗罪として裁かれた。

たいこ持からことの次第 聞きし紫おどろきて
時計は私があげたのに にくいは五十嵐隊長と
五十嵐悪事のかずかずを 願書にしたため願い出る

二度の調べに中田さん うれしや無実の言い渡し
陸軍現役満期にて今紫が出向かいに
日頃信ずる神様は 東京名代の神田区の
明神様へ礼参り 今紫も年があき

めでたく夫婦になりました

 「操の鏡 今紫」 一巻の終わりでございます

吉原「金瓶楼」は実在していた遊郭であり、「今紫」も有名な遊女であったのでその名前を借用したものと思われる。今も吉原に「金瓶楼」というソープランドがある。

今紫( いまむらさき):
1853-1913 明治時代の遊女、舞台女優。

嘉永(かえい)6年生まれ。16歳で江戸吉原の大黒楼にはいる。気っぷのよさで知られる。明治5年の芸娼妓(げいしょうぎ)解放令で吉原をでて,芝居茶屋や待合をひらく。25年役者となり三崎座に出演。画家の高橋広湖を養子とした。大正2年9月29日死去。61歳。本名は高橋幸。芸名は高橋屋今紫。

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2015年12月16日水曜日

のぞきからくり 「新田大明神」

のぞきからくり 「新田大明神」





「矢ノ口渡合戦にて義興戦死図」(歌川国芳画)
















新田神社の由来(「裏切り者を懲らしめた神様」)、新田義興(新田義貞の次男)をまつる。
「神霊矢口渡」、「矢守」

     のぞきからくり 「新田大明神」 製作・演者:大道芸研究会
https://www.youtube.com/watch?v=of42PCwnma4


「大田区の神社」による新田神社の由緒
正平13年(1358年)創祀。新田義興公は、正平13年10月10日畠山国清等の奸計により、矢口の渡に於て討たれ憤死した。このことがあってから、矢口の渡に夜々「光り物」が表はれ、往来の人を悩ましたので、村老等が墳墓を築き、社祠を興し、新田大明神として奉斎したのが始まりである。

東急多摩川線の武蔵新田駅の「新田」は、新田大明神を祭った新田神社に由来する。

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のぞきからくり「不貞の末路」 実演

のぞきからくり 外題は「不貞の末路」

今でいえばお昼のワイドショーか三流週刊誌のネタ。 鉄板ネタ

         のぞきからくり 「不貞の末路」
https://www.youtube.com/watch?v=GcwQz1WvgYk


1984年 佐賀県 演者:北園 忠治/北園 みつる 

亭主を殺して財産を処分して若い愛人と逃げた奸婦がついに捕まって裁判にかけられ「死刑」を言い渡されるてんまつ

この動画では京都の瀬戸物問屋だが広島の雑穀問屋などいろいろなバージョンがあるようである。

どちらにせよ金持ちの商家で美人で多情の妻が出入りの若い男に手を出してしまう。
そして、「添うに添えぬ仲なれば いっそのことと覚悟を決めて」夫殺しを計画する。うまくいけば晴れてかわいい男と添うことができるという夢

「不義密通、不倫」事件は大正・昭和だけでなく平成の世になってもテレビのワイドショーで取り上げれる人気の事件である。

ハアーーーー、 京都の片ほとり 伏見のーーー
内は瀬戸物問屋にて その名山田のゆうきちは
女房お浜とむつまじく 人もうらやむ暮らしぶり

出入りの豊吉はいきな男で年若く  迷いやすいは色の道
妻のお浜と豊吉は人目をしのんで不義をする。
一度はままよ、二度はまま たび重なるにしたがいて
ついに夫が嫌となり 隠し男の豊吉とお浜が悪事をたくらんで
夫のゆうきち 絞め殺す

誰知るまいとお浜は 五千円なる有り金や家蔵諸道具も売り払い
かわいい男の手をとりて 後は野となれ山となれ
九州地方にと身をかくす

お上の詮議が厳しいので あちらこちらとさまよいて
愛知県にゃ入りこんで ついに名古屋に足を止め

飲食店をいたさんと 名古屋の本署にゃ願い出る
さすがに警官抜け目なく 二人の挙動が怪しいと
京都七条の警察に 電話で照会いたされる

七条警察署よりは 大石巡査がそのときに 
応援巡査ともろともに お浜の宅に乗り込んで
なんなく二名を捕縛して 七条本署にゃ連れ帰る

刑法上にゃてらされて 重懲役を読み渡す
立会い検事の不服にて 大阪裁判に回される

豊吉、お浜の両名に「死刑」の宣告読み渡す

「哀れなる不貞の末路でした。これにて読みきりでございます。」

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2014年2月9日日曜日

のぞきからくり瑞浪市文化財に  「忠臣蔵」

のぞきからくり瑞浪市文化財に 箱の中の絵楽しむ娯楽道具
岐阜新聞  2014年01月29日

中央で観音開きとなる、のぞきからくりの看板絵。外側と内側では場面が異なる(相生座提供)

 
 
瑞浪市教育委員会は28日、江戸後期から昭和初期ごろまで縁日などで親しまれた見せ物の仕掛け屋台「のぞきからくり」の看板絵と内部の中ネタを、市有形民俗文化財に指定した、と発表した。全国的にも現存するのぞきからくりの史料は数少なく、今回屋台は無いものの東海地域で確認された初の事例という。
 のぞきからくりは、屋台に仕込まれた箱の穴をのぞき、内部の中ネタが切り替わるのを、口上を聞きながら見て楽しむ娯楽道具。
 今回指定されたのは、屋台上部を飾った看板絵4枚と、中ネタの絵6枚。忠臣蔵の物語の場面が描かれており、大きさはいずれもふすま大で、幅約90センチ、高さ約1.8メートル。
 兵庫県姫路市の工芸家で海外からも注目された故宮澤由雄氏が大正から昭和初期に制作。布の下に綿を入れて人物を立体的に浮かび上がらせる「押し絵」の技法で、躍動感あふれる名場面を見せている。
 美濃歌舞伎博物館・相生座館長小栗幸江さん(65)の父親が生前、愛知県犬山市にあったものを約30年前に引き取り長年保管していたが、2012年にのぞきからくりの史料だと分かり、今回の指定につながった。小栗さんは「いずれ屋台を復活させて、口上師も育てて、忠臣蔵を上演したい」と話した。

2014年01月28日


http://tononews.blog.fc2.com/blog-entry-1683.html
「のぞきからくり」とは、江戸時代後期に始まり、大正時代から昭和の初期にかけて、一般大衆に親しまれた、娯楽の1つ。
しかし、活動写真(映画)の登場により、廃れたという。

のぞきからくりを、上演するための「屋台」が、現存しているのは、新潟県新潟市、大阪府豊中市、広島県三原市、福岡県北九州市のみ。

瑞浪市には、「屋台」は残っていないが、「忠臣蔵」の看板絵が4枚と、中ネタ(なかねた)の絵が6枚あり、1幕分が、セットとして残っている。

姫路市の工芸家、故・宮澤由雄さんが、「押絵」の技法で、制作したもので、
昭和初期の娯楽を知る、貴重な民俗資料。

看板絵・中ネタとも、“ふすま1枚”ほどの大きさがあり、客が、屋台の「のぞき穴」から見ると、中ネタが立体的に見える、仕組みになっている。
中ネタを変えたり、語りを務めたりする、「弁士」が必要。
中ネタ

2013年8月24日土曜日

チンドン楽隊による宣伝 昭和ロマンを楽しむ会

チンドン屋の楽隊として昭和ロマンを楽しむ会はパレードしたりイベントの呼び込みを行うこともある。もちろん旗持ち、ビラ配りもする。

曲は美しき天然のほか、にぎやかな蒲田行進曲、東京ラプソディ、お富さん、銀座カンカン娘などを演奏する。メロディはバイオリンでリズムはチンドンとウクレレである。クラリネットやサックスと合奏することもある。

大蒲田祭 2013









昭和ロマンを楽しむ会 書生節 バイオリン演歌 大正演歌 昭和演歌師 平成演歌師 昭和歌謡 チンドン ちんどん ウクレレ 

2013年8月9日金曜日

縁日ののぞきからくりや演歌師 湯川秀樹自伝(子供時代)より

湯川秀樹(明治40年生まれ)

湯川秀樹が子ども時代にどんな遊びを楽しんだか書かれている。その中にのぞきからくりや演歌師(艶歌師)も出てくる。


湯川秀樹『旅人・湯川秀樹自伝』(角川文庫、昭35)より


  兄がよくかぶと虫を採って来てくれた。先がふたまたに分かれた一本の角を持っているかぶと虫を、私たちは「カブト」と呼んだ。かまのような二本の角を持つくわがたを「源氏」と呼んだ。何もないのは「坊主」である。兄が捕らえてきた虫を、私は木箱に入れて砂糖水で飼った。時々、箱から出して相撲をとらせたり、紙で作ってきた車をひかせたりした。木箱のふたには小さな穴をいくつもあけて、風通しをよくした。夜の間に逃げ出さないように、箱の上に石を置いた。(中略)
  
出町から今出川の通りにかけて、月に二回、十四日と二十二日に縁日が出た。露店に燃えるアセチレンのにおいは、今でもあざやかによみがえってくる。
  
 家の二すじ南には、荒神様のお社があった。ここの縁日にも露店はたくさん出た。いや、露店だけではない。のぞきからくりは、不思議に子供の夢をさそった。料金は二銭だったと思う。口上の文句は忘れたが、小さな窓からのぞくと、極彩色の絵が見える。いまで言えば、紙芝居に当たるものであろうが、それよりずっと情趣があったように思えるのは、古い時代のものであるからかもしれない。説明者は、棒をたたいて拍子をとりながら、声色を使う。内容は子供の私にはよく分からず、興味もなかった。しかし、からくりの持つふんいきには、魅力があった。
  
 からくりの隣りでは、艶歌師が流行歌をうたっていた。金魚屋も店を出した。ほうずき、べっこうあめ、うつしえ。夏ならば、とうもろこしを焼きながら売っている店もあった。露店といえば家庭の日用品や、安呉服なども売っていたはずだが、目に浮かぶのは、子供の私に魅力のある店屋ばかりである。べいごまを京都の子供たちはパイと呼んでいた。みかん箱やバケツの上に小さなござをくぼませて、そこへ叩きつけるように径二センチぼどの鉄のこまをまわすのである。こまは時々ふれあったて火花を散らした。一方はござの外まではねとばされることもある。
  
「メンコ」という遊びもあった。丸い厚紙には、たいてい、軍人や役者の似顔絵がはりつけられていた。地面に置かれた一枚に向かって、一人の子が自分のメンコを力いっぱいたたきつける。相手のメンコを裏返しにすれば、勝負はつくのである。
 
 「カナメン」というのもあった。小さな鉛の薄板である。飛行機や、飛行船などの形をしていた。地面に置かれたカナメンの真上から、静かに自分の一枚を落とすのである。うまくあたると、置かれていたカナメンはひるがえって裏を見せる。私は何十枚というカナメンを、重そうに兵児帯の中に巻き込んである男の子を見て、その子の「自由」がうらやましかった。